カテゴリ:京都で過ごした学生時代( 12 )

京都で過ごした学生時代 第2章


「学舎は衣笠と広小路にあった」

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本通の向こうは糺ノ森で、時代劇映画のロケが頻繁に行われていた。

下鴨から衣笠学舎に行くには下宿前の三平屋を右に、直ぐの細い路地を左に出るとそこが「糺の森電停」で、京都市電に乗車。(この路地におでん屋さんがあった)
市電は、北大路通を走って烏丸車庫経由、大徳寺・金閣寺前を過ぎるとやがてわら天神電停で、そこからは歩いた。
烏丸車庫前で入庫することがあり、そのときは乗り継ぎ券で乗り換えた。
帰りは北野白梅町でパチンコをして帰るか、上七軒にある大学のバンド相方の家(正確には老松町にあるレース屋さん)でギターを弾いたり、コーヒーを淹れてもらったりした。
ここでビフカツを初めてご馳走になりとんかつ以外のカツの存在を知って驚いた。

広小路で部活があるときは、衣笠からスクールバスが便利で、生協で買った回数券で(たぶん一枚5円くらいだった)
国際モータースの貸切スクールバスに乗っていった。
広小路学舎の近くにはJAZZ喫茶「シャンクレール」四条河原町まで歩けば「マンホール」があった。
河原町通りの丸善で、梶井基次郎を気取って檸檬を置く真似をした。
(田舎育ちの青年には精一杯のパフォーマンスだ)

こんな風に書くと真面目に通学したように見えちゃうけど、下宿で小説を読み漁ったりJAZZを聞いたりして朝まで過ごし、夕方からバイトに出かけるというホステスさんのような生活をしていたのだ。バイトのお金はサントリーホワイトとと本とレコードに消えた。
オーディオはダイヤトーンDS-251MKIIをパイオニアのアンプで鳴らし、ビクターのターンテーブル、トーンアームAテクニカの先にデンオンのMC式カートリッジDL-103やシュアV-15type2を付けて悦に入っていた。(就職するとすぐSPとメインアンプは、JBLとマランツに変わった)
長岡鉄男さんの診断記事を読んでは、位相がどうのとかコンクリートブロックを床に敷くと音がどうとか言いながらボコボコ木造床の下宿屋で聴いていたのだから笑っちゃう。

九州のセメント工場とミカンのだんだん畑がある田舎町で育った少年が、東京でも大阪でもなく京都の大学を選んだのは、フォークソングの中心だったから。
ボクは、とりたてて唄が上手いほうではないのだけど、高校ではじめたバンドのメインVo、Gt 担当の相方が高くアマい声で楽器メーカーのポップスコンサートで県代表になった。
彼はのちにレコード会社にスカウトされ、呉服屋のあととりの彼は「唄を唄うべきか商家を継ぐべきか」悩んだ挙句、家を継いだ。多感な青年にとって切実な岐路だった。
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津久見港



たぶん続く^^;


(このエントリーは、2010年の記事を再編集し画像を更新したものです)
by dukesaloon | 2015-12-02 19:41 | 京都で過ごした学生時代 | Comments(2)

京都で過ごした学生時代 第1章


「京都市左京区下鴨宮崎町54」
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下宿の前にある三平屋さんで食パンや乾麺を買ったものだった


40年も前に過ごした下宿住所が今でもスラスラと出てくるのがおもしろい。
毎週のように届く手紙には、細書きのハッパフミフミ万年筆でこの宛先が蒼インクで端正に書かれており、幾度となく書かれた言葉を読みかえした。

京都駅から葵橋経由植物園行き「5番」電車、『糺の森』電停から西に入ったところがここの住所。
友禅絵付け職人さん宅の二階が僕の下宿だった。
「ガラッ」と格子戸を開けると玄関までが踏み石で、左に蹲(つくばい)右におじさんの職場があり町屋づくりの部屋が奥に長くつづいていた。
友禅職人のおじさんは、朝から晩までいつもこの部屋で色付けをしていた。
電話があると小太りのおばさんは、優しい人で「おのさ~ん電話ですよ~」と2階に声をかけて気安く取りついでくれて、
黒いダイヤル式の受話器の向こうから聞こえてくる女性(ひと)の声に胸をときめかせたのだった。
それで話が終わることはなく、サントリーレッドの大瓶に貯めた10円玉をジャラジャラとコートのポケットに詰め込んで糺の森電停近くにある公衆電話ボックスにむかった。
たまにこの公衆電話は10円玉が一杯になりいくらでも話せた。
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姿は変わったがその電話ボックスはいまもあった


下宿の部屋は、二階に在る四部屋といちばん広い六畳間をベニヤ板で仕切って二部屋にした合計6部屋で、最初ボクは仕切った奥のほうの部屋に下宿した。
隣に住んでいる一回上級の産大生が、新聞を読んでいるのか辞書か漫画なのかは、聞こえてくる音で聞き分けることができた。
1階にあるトイレは大家さんと共同で二階には洗面台がひとつあるだけ。
ここで水を汲み電気ポットで湯を沸かしチキンラーメンが主食の毎日だったがそれほど貧しいと思ったことは無かった。
仕送りが届いたときは奮発し隣の下鴨飯店でレバもやし定食と焼き餃子や洋食屋「のらくろ」でトルコライスを奮発した。
風呂は二日に一回の割合で、近所の銭湯に通った。
このころは洗髪料金は追加で払った。
神田川じゃないけど洗面器を抱えて歩く冬の夜道に、石鹸箱が本当にカタカタ鳴った。
パチンコで勝つとお風呂の帰りに赤提灯でアツアツの大根とゴボ天で飲むのがこの上ない贅沢だった。

つづく

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(このエントリーは、2010年の記事を再編集し画像を更新したものです)
by dukesaloon | 2015-11-29 21:11 | 京都で過ごした学生時代 | Comments(8)

葵祭

写真をクリックすると大きいサイズでご覧になれます。
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鴨川桜の小径(2013.5)

下宿していたのは、この場所からちょっと南に下った辺り。
オールナイトニッポンが終わったあとはデクスター・ゴードンやコルトレーンをを聴きながら、文庫本に熱中してむかえた朝は、この辺りの鴨川で朝の空気を思いっきり満喫したものだった。

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by dukesaloon | 2013-05-16 00:06 | 京都で過ごした学生時代 | Comments(4)

糺の森の新緑が朝光に透き通って

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あぁ!
40年前のボクはここにいた。
毎年この季節になると奥さんが下から「みなさん、降りてきて」と2階の学生たちに賀茂祭(葵祭)のご馳走を振舞ってくれた。

左京区下鴨宮崎町54
友禅の下絵を書く職人さん家の二階に下宿させてもらい、烏丸車庫を経由して北大路通をわら天神まで京都市電で通った。
近くには中華「下鴨飯店」や洋食「のらくろ」があってバイトのお金が入るとたまの贅沢をした。メニューは決まってレバもやし定食かトルコライス。
普段はなんでも売っている前の八百屋さんで買った食パンや発売されたばかりのカップヌードルをたべて、シーヌードルも美味いなあと楽しんでいた。
お昼は王将や学食をよく利用した。
当時の王将メニューは、天津飯+餃子または中華丼+餃子。
by dukesaloon | 2013-05-15 08:36 | 京都で過ごした学生時代 | Comments(2)

web写真集 祇園祭「京の彩り」

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2006年から撮影
ブログでご覧いただいた
祇園祭の写真をまとめました
web写真集 祇園祭「京の彩り」KYO NO IRODORI

こちらからお入りください
→ クリックまたはキーボード矢印のほか
スライドショーでもご覧になれます
by dukesaloon | 2012-08-05 21:13 | 京都で過ごした学生時代 | Comments(18)

「なごり雪」が流れる駅

画像クリックで拡大できます
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このトンネルを抜けると汽車は戻ってこない
一方通行の旅なのだ
九州で降雪は落ちては解ける積もらない雪
そう言って伊勢正三がイメージして書いた「なごり雪」

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電車が近づくと♪なごり雪が流れる日豊本線 津久見駅2番線ホーム
「まもなく2番線に〜」音が出ます

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トンネルを出ると生家の前を走り一直線に北上
いまを遡る40年前に京都に旅立ったホーム
こちらも御覧ください
京都で過ごした学生時代 第4章
by dukesaloon | 2012-05-11 21:26 | 京都で過ごした学生時代 | Comments(2)

真空管アンプの温もり

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LUXMAN SQ-38Signature Ishidoriya Hanamaki Iwate(2011,8)

あり
岩手県花巻市石鳥谷町に住む
彼の地は宮沢賢治の故郷で、このあたりの田は、賢治が栽培法を解いて回ったものである
ここも震災の被害を受け3日間ロウソク生活
ガレージに眠っていた反射式ストーブが防寒に役立ったそうだ
食べ物は冷蔵庫の貯蔵でなんとか回した
仏壇が倒壊し秋田の仏壇屋に依頼、大金をはたいて一番に修復したと

彼はいまでも真空管アンプを愛用し、これでタンノイを鳴らす
ここにボクが学生時代、京都十字屋で購入したJazzのLPが眠っており、時折聞かせてもらうのが楽しみのひとつとなっている
ミキサー車を使いSPの土台をコンクリートで固めたリスニングルームは無傷だった
by dukesaloon | 2011-08-28 00:06 | 京都で過ごした学生時代 | Comments(4)

京都で過ごした学生時代 第4章

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月鉾


高校を卒業し郷里から京都に向かうときの事を書いておかないと忘れてしまいそうです。
当時の荷姿は、蒲団袋と柳行李と言うのが定番でした。もちろん単身宅配パックのようなものはありません、引越し荷物を「チッキ」で送ります。この「チッキ」と言うのはJRが国鉄の時代に運用していたサービスで、乗客が移動する際の荷物を別の貨車便で運んでくれると言うもので、出発駅に乗車券と荷物を持ち込んで薄っぺらな預かり証明書を受取り、到着駅で荷物を受け取るという便利なシステム。たぶん、そうしないと客車中が荷物だらけになるほど、当時の乗客の荷物量は多かったのだろうかと想像する。

そのため帆布のように頑丈でガサガサの布製蒲団袋(たぶん赤玉フトン袋)のなかに、家長の次に上等な蒲団一式と毛布、シーツと枕に夏用のタオルケットをいれてもらい、その隙間に割れないように新聞紙で養生したお茶碗とコップなどを入れた。
柳行李には、楽譜や辞書と母が買ってきてくれたラーメンなどを詰め込んだ。

「そうか!」
柳行李が定番だったのもこの鉄道輸送の影響なのか。なにせガッチリ頑丈にできており、多少の荷重が上に掛かってもびくともしない作りだ。現在(いま)の貨車と言うと産業用のイメージが強いのだが、その中にはそれぞれの思いがいっぱい詰まった荷物がかさ高に積まれていたのだ。因みにチッキはチェックが変化したものだと覚えている。

その後に揃えた数少ない電気製品は、電気ポット・電熱器、電気スタンドで入学してから学生生協で調達したもの。(あとの電化製品は持参したパナソニックのラジオと親爺のお古のブラウンシェーバーだけか)それなのに何故かサイフォンがあったりした。珈琲はイノダに限る、とか云って嬉しがっていたものだ。

高校の卒業式が終りそれぞれの仲間が旅立っていくたびに、クラスメーツは夜行列車(寝台特急☆彗星)の出発する時間、駅に集合して見送った。だけど最後の友達は誰が見送ったのか聞いたことが無い。
実は、この駅こそが伊勢正三の「汽車を待つ君の横でボクは、時計を気にしてる」の舞台とされる駅なのである。この唄の君は東京から切なく去って行くのだが、その後ボクは加川良の「京都の秋の夕暮れがダッフルコート無しでは寒いくらいで」と独白しながら、デザートブーツとジーンズでギターケースを抱えて河原町を歩くようになった。

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下鴨中通 ホワイトを買った酒屋さんは健在だ

バイトの事を少し書いておきます。
最初は京都高島屋の屋上ビアガーデンで白衣の上着を着てビールジョッキ運びをしていたのだが、特大ビアジョッキ6杯も持つとこれはメチャクチャ重く、酔っ払いお客さんの接客が不慣れで直ぐに厨房に入った。そこでは枝豆を茹でたり、トマトを6Pに切って半分皮をむきサラダ用の仕込みをしたり、サンドイッチ作りなどをしていた。
でも、時給があまり良く無いのと夏場しかない仕事だったので、葵橋東詰にある焼肉中華屋さんで(最近確認したら今もありましたよ)働くようになった。どうしてココに勤める事になったのかはっきり覚えていないのですが、たぶんバイト情報誌か張り紙を見て飛び込んだのかもしれません。
当時この店は、家族全員が働いており、おばあちゃんと息子夫婦、そして3人の息子が交代で朝11時から26時頃までの営業で、ボクはお昼前から夜までの間随時に手伝っていました。近くには家庭裁判所や空手道場があったのて結構繁盛していました。

きっと続く

by dukesaloon | 2010-10-26 00:06 | 京都で過ごした学生時代 | Comments(4)

京都で過ごした学生時代 第3章

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京都デート編

待ち合わせは、いつも京都高島屋の阪急電車出口。
四条河原町の南西にあるこのデパートの東南を下ったところに煙草屋があってその隣に地下出口があった。宝塚線沿線に住んでいた彼女は、十三で京都線に乗り継いでやってくる。すらりと背筋が伸びたスタイルと端整な顔立ちでタクシーに乗るとよく「歌劇団のかたですか?」と間違われ照れていた。

ここから八坂さんを通って蹴上、哲学の道を歩いたり府立植物園には下鴨を経由して5番市電で向かったりした。5番電車には植物園行きと高野行きがあって高野行きに乗っても北大路で乗り換えが出来た。
銀閣寺や金福寺、岡崎動物園もよく行ったし、たまには、順正で湯豆腐を頂いたこともあった。銀閣寺はハデハデな金閣と違って趣があり、最近の調査で白土を塗った観音殿で観月を意図して建設されていることが判明。

高瀬川沿いのミューズで音楽に浸ることもあった。このクラシック専門喫茶は、赤い椅子が2席ずつ同じ方向におかれクリーニングのきいた白カバーが格調高かった。SPはタンノイ製だったと思うが、この記憶は定かではない。ウィーンフィルやシカゴ交響楽団にを聴きはじめたのはこの頃からである。帰りに十字屋の2階でアルバム選びもたのしい時間だった。
百万遍の進々堂で遅めのランチを摂るのも楽しみで、大きなテーブルやベンチの客席、パティオ席でいただく本格的パンの味は格別で巴里の気分を味わえた。
夕飯は、祇園にあった山口大亭をよく使った。

植物園には、大きなケヤキ並木があり、小春日和の午後生まれて始めてここのベンチで膝枕をしてもらったときは、ドキドキで信じられないと思うが今と違って随分と世間知らずの少年だったのだ。クリスマスローズを覚えたのはこの頃だったかな。

(その後に、オープンした四条河原町阪急は先日閉店した。)
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つづく

by dukesaloon | 2010-10-24 00:06 | 京都で過ごした学生時代 | Comments(16)

京都で過ごした学生時代 第2章

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津久見港

セメント工場とみかん作りが産業である九州の田舎町で育ったボクが、どうして京都に向かったのかと言うと、当時はフォークソングが流行っていたからなのである。フォークソングと言えば、北山修や加藤和彦と言う年代もいるかも知れないけど、ボクらのころにもう彼等はビートルズのような存在になりかけていた。

友人の影響でボクは西岡たかしさんが大好きで「まぼろしのつばさと共に」や「これがボクらの道なのか」などを、市民会館のステージで唄ったものだった。ボクはそんなに唄が上手いほうではないのだけど、メインVo、メインGt 担当の友人は(つまりボクがサイドVoサイドGt)、メッポウ甘く高い声でCBSソニーにスカウトされた。彼は呉服屋のあととりでハムレットの心境で「唄を唄うべきか家を継ぐべきか」悩んだ挙句、あととりを選ぶことになった。

祇園祭の頃には、京都円山音楽堂で宵々山コンサートがあり、高石さんや加川、高田渡さんを目の当りにしてコーフンしたのだものだ。(吉田拓郎は来たんだっけ?)。
フォークソングが好きで「京都に行きたい」という誠に不純な動機で学校を選んだわけなのである。
そんなことで高校の先生からは難しいと言われたのだけれど、同志社と立命を受験して立命に行く事になっちゃったと言う訳。


祇園祭
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当時、学び舎は衣笠、部活は広小路という学生生活を送っていたのだ。衣笠にある学舎に行くには、市電で糺の森から北大路を走って、烏丸車庫前で乗り継ぎ券をもらってわら天神で降りて通い、帰りは北野白梅町でパチンコをして帰るか、上七軒にある友人宅(正確には老松町にあるレース屋さんの息子)でギターを弾いたり、サイフォンコーヒーを飲んだりした。
広小路で部活があるときは、衣笠からスクールバスが便利で、生協で買った格安の回数券(たぶん一枚5円くらいだったと思う)で、国際モータースのスクールバスに乗っていった。
広小路学舎の近くにはJAZZ喫茶シャンクレール、河原町まで歩けばマンホールがあったりした。河原町に歩いて行く途中には丸善があって、よく梶井基次郎を気取って檸檬を置く真似をした。(田舎育ちの青年には精一杯のパフォーマンスだったね)

こんな風に書くと真面目に通学したように見えるけど、実は必修を4回生まで持ち越して卒業が危うかったりした。もっぱら下宿で小説を読み漁ったりJAZZを聞いたりして朝まで過ごし、夕方からバイトに出かけるというホステスさんのような生活をしていたのだ。バイトのお金はサントリーホワイトと食パンとオーディオに消えた。

記憶は定かではないのだが、ダイヤトーンのDS-251mk2をパイオニアのアンプで鳴らし、ビクターのターンテーブル、トーンアームAテクニカの先にデンオンのMC式カートリッジDL-103やシュアV-15type2を付けて、長岡鉄男さんの言いなりに位相がどうのとかコンクリートブロックを床に敷くと音がどうとか言いながらボコボコ床の下宿屋で聴いていたのだから笑っちゃう。

たぶん続く^^;

by dukesaloon | 2010-10-23 00:06 | 京都で過ごした学生時代 | Comments(12)